バイオグラフィー
上ヶ平裕彦
(かみがひら ひろひこ)

生い立ち

生まれ → 修学時代

岐阜県高山市生まれ。7歳のとき土木技師だった父を仕事中の事故で亡くし、11歳のとき母が教職中に倒れ闘病生活に入った。

子供の頃は昆虫や植物が好きで、高山市内の松倉山や城山を歩いて昆虫や植物を探した。そして見つけたものを図鑑で確認することが、何よりもの楽しみだった。それは、現代のポケモン集めのようなものだったのかも知れない。

小学生高学年から中学時代は図書館に入り浸り、毎年200冊以上の本を読んだ。小説、歴史、哲学、科学、美術、実用書などさまざまなもの、興味を惹いたら片っ端に読んでいた。思春期に読んだフロイトの精神分析学入門など、実にショッキングなものが深く記憶に刻まれている。

科学や工学の本を読むうち、電子工作に興味を持った。お金の乏しい中、通信販売で電子部品を購入しラジオなどを自作する。アマチュア無線免許を取得したのも、中学2年だった。

17歳で母を亡くす。兄弟もなく天涯孤独となった境遇の中、さまざまな方の支援をいただき、生かされている思いで勉学に努める。望み叶って、電子情報系の技術者として沖電気工業に就職。

開発技術者 → 編集者 → フリーライター

沖電気工業では、コンピューター製品開発の事業部(情報処理事業部システム本部)で新人研修を受けた。およそ100名中2位の成績で、当時成長が大きく期待されたマイクロプロセッサー搭載製品、その開発部門への配属が叶った。製品の心臓部となるx86系リアルタイムOSやコンパイラ、ファイルシステムなどソフトウェア開発を行う。また、ハードウェア仕様策定にも参画。

しかし、独自開発品から業界標準品への世の変化で、基礎開発職の潮目を感じ取る。OSなどをイチから創る仕事に先はない。転職を決断し、子供の頃から憧れの出版社であったラジオ技術社(現・インプレス)に入社。編集部記者として、オーディオビジュアルの月刊誌を制作。ブツ撮りや人物撮りのカメラマン基本スキルは、この時期に学んだ。また、新雑誌の創刊に企画室長代理として携わり、日本初の読者向け会員制パソコン通信サービスを立ち上げる。

ここでも転機が訪れる。ラジオ技術社の事業縮小を受け、勧奨退職となった。その後、ラジオ技術社は経営存続が難しくなり、アスキーからスピンアウトした塚本さんらが救済買収、インプレス社となる。仕事を無くした私は、同じく憧れだった誠文堂新光社などのフリーランス記者として、執筆や撮影を請け負うようになった。

だが、得意としていたオーディオビジュアル分野は市場成熟が進み国内空洞化、将来の食えない恐怖を抱くようになる。そこで、収入確保と関心興味から、UNIX系開発技術者や、CD制作、映像制作にも携わる。さらに何と言っても面白かった仕事が、秋葉原での電子計測機器・中古パソコンなどの店頭販売だ。お客様と直接対話して納得されお買いいただくまでのプロセス、結果が数字に直接現れる怖さと面白さ。5年間ほどの経験だったが、もしも給料が安くなかったら、ずっと続けていたかも知れない。そして、インターネット黎明期のカオスな時代経験は、ITを生業とする礎となった。

一時期に勤めていたスタートアップ企業で、日本におけるインターネットの実質的な起源となったコンピュータネットワークJUNETに参加したことも、貴重な経験だった。当時のWIDEプロジェクトメンバーやオープンソースプロジェクトメンバーとの親交の一部は、今も続いている。

ホームページ制作を始めたのは、1994年ころだった。中古販売に携わった経緯でSunのSPARC Stationを買い自宅に持っていた。そのUNIX上でWeb/DNS/Mailサーバを立てたりいろいろやっていた。1995年末にWidows 95が出て、翌年からは世の中にものすごい勢いでホームページが流行り出したことを記憶している。アルバイト先のショップのためにホームページを作り始めたのも、この頃だ。HTMLだけでは大したことができず、PerlでCGIプログラムも書いていた。ホームページに載せる写真も、当初はフィルムで撮って現像プリントの後、イメージスキャナーで取り込んでいたが、ほどなくデジタルカメラを買った。画像の荒さには不満があったものの、すぐ画像データが取り込めるのに喜んだりもした。

SE → コンサルタント → マーケター

1999年に富士通ビー・エス・シー入社。地道に勉強して(遊んで?)いたUNIXとインターネットのスキルが評価された。1999年7月のNTT三社分割(東日本/西日本/Com)に際してNTTCom様支援の技術者として従事。公式Webサイトwww.ntt.com立ち上げ構築運用メンバーとしてNTTComメディア技術開発センター(後の先端IP開発センター)に常駐。

1999年大晦日から2000年元旦は、2000年問題のトラブル発生に備え、NTTCom大手町データセンターで年を越した。翌年はインパクというインターネット上のバーチャルな博覧会サイトや、家電リサイクル法対応の申込みサイト立ち上げなど、ビッグイベントが記憶に残る。その後も、人気オンラインストレージサービスの立ち上げ、国際共同プロジェクト、数万人規模の全社ID統合など、エンジニア冥利に尽きる大仕事を経験できた。三井化学様、本田技研様、富士フイルム様、リクルート様など顧客企業の常駐SEとしてIT業務を支援。

2009年より、富士通総研でITコンサルティングを担当。重大イベントの二週間前にキーマンが亡くなったり、東日本大震災の電力危機・輪番停電対応に困窮したりと、アクシデントは多かったが、コンサルタントの仕事を知る上で得るものも多かった。

2014年より富士通本社のマーケティング部門で、お客様にプロダクト製品やクラウドサービスの導入を支援。営業担当者に同行して活動、数名のスタートアップ企業様から数万名の超大手企業様まで、さまざまな規模の企業様でIT課題の解決をコーディネート。

お客様業種は流通サービスを中心に、ネット企業、ゲーム開発、アミューズメント、映像制作、アニメ制作、映画配給、気象情報、地図情報、出版、取次、印刷、テーマパーク、ホテル、運輸、警備、学習塾、飲食店、デパート、クレジット、法務会計、信用調査、不動産、建設、健保組合など。

お客様との直接対話から学べたことはとても貴重だった。好調企業にとってITの上手な活用がいかに重要なものであるか、改めて痛感する。また、エンジニアとは異なるマーケターの目で数字を眺めるのも、初めてだった。コンタクト件数やコンバージョン件数、金額などを毎週追い、分析し、お客様に役立つ提案を考えることも、大切な経験となった。

2019年に富士通グループを退社、上ヶ平IT事務所として独立開業。多くの人に喜ばれる仕事で、日本のビジネス発展の一助となりたい。

川口市との縁

川口市には1989年より在住。川口駅から東京駅までJR京浜東北線1本、30分足らずで行ける足の良さ。緑豊かで暮らしやすく、人に優しいことが、この地に愛着を持つ理由となっている。

当事務所が位置する市内飯塚地区は、埼玉県と東京都を隔てる荒川の堤防に接している。事務所から堤防まで徒歩10分足らず、遠望の利く日は堤防から富士山を望むことができる。また、至近距離には、素敵な音色のスイス・クーン社製作パイプオルガンを備えた音楽ホール・リリアがある。その近隣のリリアパークは、川口市の地場産業である植木や、四季おりおりの花々が、目を楽しませてくれる。ちょっとした息抜きに、カメラを持ってリリアパークを歩くのも楽しい。

川口市が舞台になった吉永小百合さん主演の映画「キューポラのある街」は、原作者である早船ちよさんが岐阜県飛騨市古川町生まれの高山市育ち。また、親族である上ヶ平ちよ子が古川町で営む大関屋旅館は、早船ちよさんゆかりの宿でもある。

上ヶ平という姓

名字由来netによると、上ヶ平の姓を持つ者は、全国合計でおよそ60人、全国順位で41,092位、まさに絶滅危惧種の珍名らしい。

上ヶ平姓は、岐阜県飛騨市河合町角川地区(最寄り駅:JR高山本線・角川【つのがわ】)を発祥とする。本家は明治初期に角川から高山に移住、昭和30年代から現在に至るまで岐阜県関市が上ヶ平本家の所在地となっている。河合町(旧・河合村)は、富山県と岐阜県の県境に位置し、面積の94.3%が山林。特別豪雪地帯に指定されており、町全域が日本有数の険しい山地にある。

上ヶ平家のルーツは、倶利伽羅峠の戦いで敗れた平家の落人と伝えられ、平安時代末期からおよそ700年、この厳しい角川の地に隠れ住んだ。旧家当主は代々、平家由来の刀を受け継いでいたという。

また、河合町は、日本書紀より伝わる「飛騨の匠」の発祥地でもある。卓越した技巧を誇りに、都造りに携わった人々の血は、上ヶ平家も無縁ではないはず。

ライフワーク

5歳児の頃、父母に連れられ、北アルプス乗鞍岳の畳平で雲海のご来光を迎えた。標高2700メートルの地で体験した鮮烈な記憶が、ライフワークとなる山岳写真を始めるきっかけとなった。幼少時から飛騨高山の地でずっと眺めてきた北アルプス。大人になって、憧れの稜線を歩いたときの感動。極限に生きる命の素晴らしさ、景色の美しさ、儚さを多くの方々に知っていただきたい。その思いで山岳風景の撮影に取り組んでいる。

2010年から2012年にかけて、東京都山岳連盟の安全登山研修を受講。雪山教室、岩登り教室、沢登り教室、各半年間のカリキュラムを修了。

2012年に日本山岳写真協会(JAPA)の公募入選を経て、JAPA会員として作家活動中。


デジタル写真技術では、例会2014.6「デジタルカメラで素晴らしい作品つくりを」例会2017.6「ドローンで拓く山岳・風景写真の新領域」、そのほか協会会員向けデジタル研究会などの講師も務めている。

日本山岳写真協会の中では、2015年より委員、2017年より2022年まで理事として会務に携わっていた。日本全国に7つの支部と合計500名近い会員数規模、80年以上の歴史を誇る組織。本業との両立はなかなかハードで、肝心の山へ行く時間がいくらか少なくなってしまっていたのが課題であった。

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