沖電気工業では、コンピューター製品開発の事業部(情報処理事業部システム本部)で新人研修を受けた。およそ100名中2位の成績で、当時成長が大きく期待されたマイクロプロセッサー搭載製品、その開発部門への配属が叶った。製品の心臓部となるx86系リアルタイムOSやコンパイラ、ファイルシステムなどソフトウェア開発を行う。また、ハードウェア仕様策定にも参画。
しかし、独自開発品から業界標準品への世の変化で、基礎開発職の潮目を感じ取る。OSなどをイチから創る仕事に先はない。転職を決断し、子供の頃から憧れの出版社であったラジオ技術社(現・インプレス)に入社。編集部記者として、オーディオビジュアルの月刊誌を制作。ブツ撮りや人物撮りのカメラマン基本スキルは、この時期に学んだ。また、新雑誌の創刊に企画室長代理として携わり、日本初の読者向け会員制パソコン通信サービスを立ち上げる。
ここでも転機が訪れる。ラジオ技術社の事業縮小を受け、勧奨退職となった。その後、ラジオ技術社は経営存続が難しくなり、アスキーからスピンアウトした塚本さんらが救済買収、インプレス社となる。仕事を無くした私は、同じく憧れだった誠文堂新光社などのフリーランス記者として、執筆や撮影を請け負うようになった。
だが、得意としていたオーディオビジュアル分野は市場成熟が進み国内空洞化、将来の食えない恐怖を抱くようになる。そこで、収入確保と関心興味から、UNIX系開発技術者や、CD制作、映像制作にも携わる。さらに何と言っても面白かった仕事が、秋葉原での電子計測機器・中古パソコンなどの店頭販売だ。お客様と直接対話して納得されお買いいただくまでのプロセス、結果が数字に直接現れる怖さと面白さ。5年間ほどの経験だったが、もしも給料が安くなかったら、ずっと続けていたかも知れない。そして、インターネット黎明期のカオスな時代経験は、ITを生業とする礎となった。
一時期に勤めていたスタートアップ企業で、日本におけるインターネットの実質的な起源となったコンピュータネットワーク
JUNETに参加したことも、貴重な経験だった。当時の
WIDEプロジェクトメンバーやオープンソースプロジェクトメンバーとの親交の一部は、今も続いている。
ホームページ制作を始めたのは、1994年ころだった。中古販売に携わった経緯でSunのSPARC Stationを買い自宅に持っていた。そのUNIX上でWeb/DNS/Mailサーバを立てたりいろいろやっていた。1995年末にWidows 95が出て、翌年からは世の中にものすごい勢いでホームページが流行り出したことを記憶している。アルバイト先のショップのためにホームページを作り始めたのも、この頃だ。HTMLだけでは大したことができず、PerlでCGIプログラムも書いていた。ホームページに載せる写真も、当初はフィルムで撮って現像プリントの後、イメージスキャナーで取り込んでいたが、ほどなくデジタルカメラを買った。画像の荒さには不満があったものの、すぐ画像データが取り込めるのに喜んだりもした。